阿野一里塚
阿野一里塚 の画像その1
 一里塚は、道しるべの一つで、街道の両側に1里(約4km)ごとに設けられ、その大きさはおよそ5間(約9m)四方といわれています。塚の上には榎が植えられ、距離の目安として親しまれていました。
 東海道の一里塚は、慶長9年(1604)に徳川家康の命により築かれたものですが、明治以降の道路拡張や交通機関の発達でその多くが姿を消してしまいました。
 「阿野一里塚」は、珍しく両塚が残っていて東海道の中でも貴重な存在です。
 

豊明のナガバノイシモチソウ

豊明のナガバノイシモチソウの画像 あかばなのいしもちそう

 ナガバノイシモチソウは、貧栄養の湿地に自生するモウセンゴケ科の一年生食虫植物で、葉の表面や縁にある腺毛から甘く匂う粘液を分泌して、昆虫類を捕えて消化し、養分の一部とします。花は普通5弁で、赤花(淡紅色)と白花の2種類がありますが本市のものは赤花(直径1センチほど)で愛知県(豊明市・豊橋市)のみに自生地が確認され、全国的にも珍しいものとなっています。平成25年3月にこの赤花のナガバノイシモチソウは植物分類学上、日本固有の新種であることが学会で発表され、新たに「Drosera toyoakensis M.Watanabe」と学名が付きました。

 4月から5月にかけて発芽し、7月から8月に葉に対生して6センチから10センチの花茎が伸び、5~10個の花が茎側から先へ順次咲きます。茎は直立して高さ10から20センチくらいになります。

 午前中に開花し、毎年5回(8月上旬、9月上旬)に一般公開をしています。

 その他、自生保護地内には、トウカイコモウセンゴケ、ミミカキグサ、ホザキノミミカキグサなどの食虫植物やゴマクサなどの希少性植物も生育しています。

 

  • 豊明のナガバノイシモチソウ自生地で見られる主な植物はこちら(pdf 442KB)

 

 

大脇の梯子獅子

大脇の梯子獅子の画像
 梯子獅子は、今から400年ぐらい前に愛知郡大秋村(現・名古屋市中村区大秋町)から伝えられたといわれます。それ以前の建治年間(1275~78)に、半田亀崎地方から伝承したという神楽獅子を加え、大脇神明社(栄町大脇5)の祭礼に豊作を祝う行事として奉納されてきたもので、その後、吊し竹・一本竹などが加わって形態が整い、継承されています。
 高さ12mの所に丸太2本を渡したやぐらを組み、その上で2人の若者が「たねまき」、「波打ち」、「藤下り」などの勇壮な獅子舞いを演じます。
 

一之御前安産水

一之御前安産水の画像
   室町時代末期の沓掛城主近藤伊景の娘が後奈良天皇の宮女として仕えていましたが、身ごもって郷里の明知(現・西加茂郡三好町)へ帰る途中、この清水で喉をいやして安産することができたという言い伝えを由来としています。
 以来、妊産婦が安産を願って、遠近からこの清水をもらいに来るようになったといわれます。
 

沓掛城址

沓掛城址の画像その1 沓掛城址の画像その2

 沓掛城は標高71.8メートルの二村山から南東方向に緩やかに下る低丘陵の東端、標高21メートル付近に立地します。14世紀頃、近藤宗光が初代城主としてこの地に住み、桶狭間の戦い(1560)の前日に今川義元が入城し、織田攻撃の準備をした城と伝えられております。桶狭間の戦いの際の城主は9代目近藤景春で今川方に属し、落城後は簗田出羽守(政綱)、織田越中守(信照)、川口久助が在城したことが『張州府志』や『尾州古城志』などに記されています。
 本史跡地は平成元年(1989)に公園として保存整備され、本丸・二の丸・諏訪曲輪・内堀・侍屋敷 の主要な遺構が残されています。これらの縄張は江戸時代中期の蓬左文庫蔵『沓掛村古城絵図』と現状との比較をした場合、本丸址・諏訪曲輪・内堀・侍屋敷の一部は図が書かれた当時とほぼ重なる 状況にあり、全体的な広がりは東西約290m、南北約234メートルの広い範囲に及ぶものと推定されます。
 本丸部分の発掘調査(昭和56から昭和61年)では時代区分として16世紀を中心に大きく3期に渡って整備改修がされていることが明らかとされており、「天文十七」と書かれた木簡や天目茶碗、建物礎石等、多くの遺構・遺物が見つかっております。

  • 第1期:苑池を配した建物が建てられた後、掘立柱建物とため池、井戸が作られた居館的な性格
  • 第2期:掘立柱建物が壊され池も埋め立てられて、堀と土塁・礎石建物が造られた城郭的性格
  • 第3期:土塁が削平され城郭としての機能が失われた時期

沓掛城址の画像その3

    蓬左文庫蔵「沓掛村古城絵図」

 

沓掛城址出土の「天文十七」墨書木札等 附 出土陶磁器一括

 

                                                                                                出土陶磁器写真 瀬戸市提供

 

 沓掛城址の発掘調査は史跡公園整備の事前調査として、主に本丸跡を中心に約400平方メートルの範囲で実施されました。

遺物は主に生活雑排水を溜めた北の池から、一時的にまとめて投棄された様相で多量に出土し、種類は陶磁器、木製品、金属製品など多岐にわたり、陶磁器や生活日用品が大半を占める製品の発見数が多いものとなっています。

 これらの中でも木簡およびこれに類する木製品は全部で51点を数え、長さ約5cmの5角形状をした木札が18枚、内3枚については年代を示す「天文十七」または「天文」とよみとれる墨書がみられます。

 この木札に記す「天文十七」は桶狭間の戦いの12年前に相当し、池から埋土出土した他の(木製品を含む)日用品遺物について16世紀中頃の域内における人々の生活を知る手掛りとなり、同時代の陶磁器、特に大窯期の陶磁器の研究・学術的価値に寄与するものとなっています。

 さらに、近藤景春が天文十八年(1549)以降の今川氏進出により居城を明け渡し、その後永禄3年(1560)の廃城までに池が埋められたことを示しており、城の変遷を知る手掛りとなっています。

 

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二村山鎌倉街道

二村山鎌倉街道の画像その1 二村山鎌倉街道の画像その2

 鎌倉街道は源頼朝が鎌倉に幕府を開き、往来する人々のために整備した各地と鎌倉を結ぶ道路の総称で京・鎌倉間(京鎌倉往還)においては熱田、呼続、古鳴海、相原を経て二村山を通り、宿、十三塚、大久伝、西境、駒場を経て八橋に至ります。
 中でも市内北部に位置する標高71.8mの二村山は歌枕として詠まれた景勝地で、古来より街道を行き交う人々を魅了し、源頼朝をはじめ、北条泰時、飛鳥井雅経、西行などすぐれた歌人の詠んだ和歌が多く残されています。その往来する様子を記した最も古い記録については天暦5(951年)成立の『後撰和歌集』に収録されています。また、紀行文の『更級日記』(1020年)、『海道記』(1223年)『十六夜日記』(1279年)からも、鎌倉時代以前に人々が二村山を往還していた様子を知ることができます。
 さらに、二村山頂近くには「大同二」(807)銘の二村山峠地蔵尊が建ち、山麓には「十王堂」、「宿」といった街道の名残を示す歴史的地名も何箇所か残されており、古来より二村山に道が通っていた証拠を示すものとなっています。
 市内における鎌倉街道の跡とされる道は昭和初期まで、その経路をたどることができましたが宅地造成や土地改良事業によってそのほとんどが失われた状態となっており、現在では二村山の山頂近くにある地蔵堂の北西から濁池に向かって下る山道が市内で唯一、往時の道影を残しています。

二村山鎌倉街道の画像その3
「尾張名所図会」

二村山鎌倉街道の画像その4

市内地形図 (指定区域)

 

二村山峠地蔵尊

二村山峠地蔵尊の画像
   市の最高地・二村山の山頂に近い地蔵堂に安置されている3体のうち、向かって左の頭部のない高さ約115cm地蔵尊で、背面に「大同二」(807)の刻銘があります。
 いつの頃か、旅人が熊坂長範という盗賊に襲われたとき、地蔵尊が身代わりとなって切られ、肩から上が欠落したという伝説が生まれました。
 

二村山切られ地蔵尊

二村山切られ地蔵尊の画像
 二村山の山頂に安置されています。胴体が斜めに切られた形で、上半身と下半身が別々になっている珍しい地蔵尊です。
 下半身の背面に「古来仏依会大破建立之延宝七己未年(1679)」の刻があり、二村山峠地蔵尊の伝説をもとに建立されたものと思われます。

 

上高根行者堂遺跡出土の軒丸瓦・平瓦・丸瓦

 
 上高根行者堂遺跡は標高約20mで若王子川と井堰川に挟まれ、境川に向かって延びる舌状丘陵の先端に位置し、昭和36年に確認されました。

 出土した遺物については、軒丸瓦2点、平瓦7点、その他丸瓦、須恵器、灰釉陶器、山茶碗が採集され、軒丸瓦2点については瓦当文様、胎土、焼成などから同一個体と考えられています。瓦当文様の特徴は内区に中房蓮子配置1+8の複弁六弁蓮華文を飾り、間弁は独立したY字形を呈し、外区の内側の縁は二重圏線文、外側は凸鋸歯文を配置した形となっています。また、瓦当部と丸瓦部が同じ土でつくられる成形台一本作りの積み上げ技法によって作られ、瓦当側面と裏面はへら削りによって調整されています。

 これら、瓦当文様、製作技法から軒丸瓦の制作年代は、平城京軒丸瓦の第3期始め[第3期は天平一七年(七四五)~天平勝宝年間(七五七)]に位置づけられており、採集されている軒平瓦と組み合わせて使われたものと考えられています。

 特に本軒丸瓦は平城京内出土の軒丸瓦と比較した場合、瓦当文様を構成する個々の要素の組み合わせが一致し、尾張と三河の両国には全く認められない型式のものであるといった見解が先行研究によって示されており、本市にとって希少価値を示す資料となっています。

 更に、上高根地区は古代の時期に位置づけられる遺跡群が唯一まとまって存在する地域であり、中央政権に直結する機関の小規模な瓦葺き建物(古代東海道の駅家に関係する施設)が近くに存在し、その一部に使われいた可能性を示すものであることから本市の交通の様相を考える上で極めて貴重なものとなっています。

 

伊藤先生之碑

伊藤先生之碑の画像
 伊藤両村の業績をたたえるため、門人によって碑を建てる話が持ちあがり、生前の嘉永6年(1853)に両村が愛したゆかりの二村山に建てられました。碑文には両村の人となりや業績がおよそ800字の漢文によって刻まれています。
 撰文は、江戸昌平黌時代の同窓で、仙台の学者・大槻磐渓です。
 

青木地蔵

青木地蔵の画像
 鎌倉街道沿いの青木地蔵は、沓掛町宿の東方、老木の楠の根元に安置されていました。高さ約35cmの地蔵尊で、大正6年(1917)1月、寺内地蔵堂に移され、元の楠の根元には新しい代わりの地蔵尊が安置されています。
 街道沿いに安置されていたため、道祖神ではないかといわれていますが、今では頭部がないことから、下半身加護の地蔵尊として、多くの参詣者があります。
 

阿野八剱神社石灯籠

阿野八剱神社石灯籠の画像
 参道の両側にある一対の石灯籠で、阿野の外山家の出身である幕末の勤皇家・深見篤慶が万延元年(1860)8月に寄進しました。
 高さ約198cmの岡崎産花こう岩でできており、火袋と受台に深見家の家紋である三つの巴・丸に木瓜が刻まれています。
 

伊藤両村先生画像

伊藤両村先生画像その1
 絹本軸幅で、縦88.5cm横39cmの大きさです。郷土の偉大な学者・伊藤両村(1796~1859)が没した安政6年(1859)の暮れ頃に、尾張の画家・溝口月耕によって描かれ、翌7年2月に両村の門人・松本奎堂が賛をしています。

 

両村塾址

 両村塾址
 両村塾は沓掛中島村の庄屋をつとめた儒学者、漢詩人である伊藤両村が天保元年(1830)頃に開業した漢学塾です。

隆盛期は嘉永から安政頃で安政2年(1855)の調査では4人の男の教師と250人の男子生徒を概していたとされ、弘化2年(1845)からは約15年間に渡って刈谷藩主 土井利祐、利善への経書進講を行ったと伝えられています。

 門人には天誅組の首謀者の一人となった松本奎堂を始め、田宮如雲、村上忠順、忠明父子、深見篤慶ら傑出した人物を多く輩出し、中島金右衛門、神谷新兵衛、中野清風など次の時代に豊明のため働いた人を育てました。入門者の中には僧侶、社家、医者が多くみられるのも特色となっています。

 かつての両村塾は約350坪(1,155平方メートル)の両村の邸宅内にあり、庭のつくりは中国の故事に習って門前の左側には梅、右側には桃が植えられ、その前には蓮池があったと記録に残されています。現在は敷地の一部が市所有となって保存整備され記念碑が建っています。

両村塾址平面図

円福寺の秋葉大権現像

円福寺の秋葉大権現像の画像
 秋葉大権現像は、鎮火・守護の神として知られています。
 高さは約50cm、アララギ(イチイ)材の一木造りの着彩、名古屋の彫刻家吉村為隆の作で、天明8年(1788)に八事般若台の雲臥和尚によって開眼されました。
 大久伝の兼子源四郎維一が家に安置していたのを、霊夢により上高根の智福院に寄進しました。その後、明治の初めに廃寺となったため円福寺に移されました。
 

大久伝八幡社の扁額

大久伝八幡社の扁額の画像
 南画の池大雅(1723~76)が、大久伝の兼子源四郎維一家に逗留中に揮毫した書といわれ、文化5年(1808)に欅の板に書を刻し、扁額として兼子家より大久伝八幡社に寄進されたものです。
 隣の刈谷市には、「池大雅木額-秋葉殿・大悲閣」の2面があります。「秋葉殿」は、大久伝滞在中に揮毫されたものといわれています。
 

諏訪社の棟札

諏訪社の棟札の画像
 応永32年(1425)に沓掛城主近藤義行によって城内に勧請された諏訪社は、廃城後、本郷の氏神となり、宝永2年(1705)現在地に移されました。
 この社に社殿の改築、屋根葺きなどの記録を板木に書き残した棟札が多数残っています。最も古いものに慶長11年(1606)のものがあります。
 

曹源寺山門

曹源寺山門の画像
 曹源寺は、永正2年(1505)実田以耘和尚の開創で、この山門は享保2年(1717)11月に桶廻間村(現・名古屋市緑区有松町)の住人梶野清右衛門の寄進によって建立されました。
 欅材一部檜材の三間一戸楼門造りで、屋根は入母屋瓦葺です。
 

長盛院薬師如来坐像

長盛院薬師如来坐像の画像
 木造漆箔、像高約23cmの薬師如来坐像で、長盛院の本尊です。
 沓掛城主近藤九十郎景春の念持仏であった薬師如来は、永禄3年(1560)桶狭間合戦での落城と共に紛失し、その後、寛永元年(1624)近藤浄貞が地中より掘り出し、長盛院を建立し、本尊として祀ったと伝えられています。
 

諏訪社狛犬

諏訪社狛犬の画像
 この狛犬は、墨書銘によると沓掛村本郷・真野家により宝永5年(1708)に寄進されたものです。
 左右ともに高さ約34cmの像は、檜材寄木造りで、体は白、たてがみと尾は緑青で彩色されたように見られます。常時神前に献納されていて色があせたため、寛政8年(1796)、真野家によって再び彩色され、今日に至っています。
 

上高根の棒の手

上高根の棒の手の画像
 寛文年間(1661~73)に伊藤伴右衛門と浅野戸市左衛門が伝えた融和流棒の手をもとに、後に夢想流と改められて、住吉社(沓掛町住吉9)の祭礼に奉納されています。
 棒の手は、刀剣の持てない農民が身を守る手段として、身近にある棒や鎌などの農具を用いて護身の術にするよう考えられたもので、内容はいずれも秘伝として口授されながら、今日まで受け継がれています。
 

諏訪社虫送り

諏訪社虫送りの画像
 享和年間(1801~04)から始まったと伝えられる豊作祈願の民俗神事で、毎年7月下旬に行われます。
 小学生たちは、諏訪社(沓掛町森元6)神前での祈祷ののち、古老たちが麦わら、色紙等で作った実盛人形、馬、孔雀、「奉送雲霞大神」と墨書きした幟などを持って、歌と太鼓に合わせて本郷の集落内を行列します。
 集落の北はずれの最終地点で、幟などを焼き捨てて、豊作を願うものですが、近年では、豊作祈願から民俗伝承へと変わり、受け継がれています。
 

大狭間湿地

大狭間湿地の画像  シラタマホシクサ          
   大狭間湿地(2367平方メートル)は市北東部の丘陵地を構成する東海層群矢田川塁層の砂礫に涵養された湧水湿地です。

 湿地にはトウカイコモウセンゴケ、モウセンゴケ、ミミカキグサ、ホザキノミミカキグサなどの食虫植物やシラタマホシクサ、ミズギボウシなどの地方固有種、ミカヅキグサ、イボミズゴケなどの北方系の種など様々な湿地植物が生育し、大都市近郊に残る貴重な生態系を構成しています。

 また、国内の限られた地域にしか生息していないヒメタイコウチ、国内最小のトンボであるハッチョウトンボなど湿地特有の昆虫も生息しております。

 毎年5回(8月上旬、9月中旬、10月中旬)に一般公開を開催しています。

   

  ■大狭間湿地見取図はこちら         ■大狭間湿地で見られる主な動植物こちら(pdf 688KB)

勅使池遺跡旧石器資料群

 

 勅使池遺跡は名古屋市緑区鳴海町と接する市域北東部の勅使池西岸に所在します。

 本遺跡は1978年頃に発見され、旧石器時代の出土遺物は1982年頃まで続的に行われた分布調査でいずれも地畔において採集されました。

 出土した旧石器時代の遺物についてはナイフ形石器2点、彫器1点、縦長剥片1点が採集されています。その内ナイフ形石器1点は近畿地方から瀬戸内地方で盛行した横長の翼状剥片を素材とする国府系ナイフ形石器で、材質はサヌカイト製です。特にこの国府系ナイフ形石器は石材として地元産のチャートが多い中、製作された石器としてもちこまれた可能性も高く、ナイフ形石器の東海地方と近畿・瀬戸内地方との関係を示す重要な資料となっています。また、国内分布における東の限界域に位置していることから希少価値の高いものとなっています。

 

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