阿野一里塚

阿野一里塚 の画像その1
 一里塚は、道しるべの一つで、街道の両側に1里(約4km)ごとに設けられ、その大きさはおよそ5間(約9m)四方といわれています。塚の上には榎が植えられ、距離の目安として親しまれていました。
 東海道の一里塚は、慶長9年(1604)に徳川家康の命により築かれたものですが、明治以降の道路拡張や交通機関の発達でその多くが姿を消してしまいました。
 「阿野一里塚」は、珍しく両塚が残っていて東海道の中でも貴重な存在です。
 

豊明のナガバノイシモチソウ

豊明のナガバノイシモチソウの画像
 ナガバノイシモチソウは、湿地に自生するモウセンゴケ科の一年生食虫植物で、葉の表面や縁にある腺毛から甘く匂う粘液を分泌して、昆虫類を捕えて消化し、養分の一部とします。花は普通5弁で、赤花(淡紅色)と白花の2種類がありますが、「豊明のナガバノイシモチソウ」は赤花で、全国的にも珍しいものです。
 

大脇の梯子獅子

大脇の梯子獅子の画像
 梯子獅子は、今から400年ぐらい前に愛知郡大秋村(現・名古屋市中村区大秋町)から伝えられたといわれます。それ以前の建治年間(1275~78)に、半田亀崎地方から伝承したという神楽獅子を加え、大脇神明社(栄町大脇5)の祭礼に豊作を祝う行事として奉納されてきたもので、その後、吊し竹・一本竹などが加わって形態が整い、継承されています。
 高さ12mの所に丸太2本を渡したやぐらを組み、その上で2人の若者が「たねまき」、「波打ち」、「藤下り」などの勇壮な獅子舞いを演じます。
 

一之御前安産水

一之御前安産水の画像
   室町時代末期の沓掛城主近藤伊景の娘が後奈良天皇の宮女として仕えていましたが、身ごもって郷里の明知(現・西加茂郡三好町)へ帰る途中、この清水で喉をいやして安産することができたという言い伝えを由来としています。
 以来、妊産婦が安産を願って、遠近からこの清水をもらいに来るようになったといわれます。
 

沓掛城址

沓掛城址の画像その1 沓掛城址の画像その2

 沓掛城は標高71.8メートルの二村山から南東方向に緩やかに下る低丘陵の東端、標高21メートル付近に立地します。14世紀頃、近藤宗光が初代城主としてこの地に住み、桶狭間の戦い(1560)の前日に今川義元が入城し、織田攻撃の準備をした城と伝えられております。桶狭間の戦いの際の城主は9代目近藤景春で今川方に属し、落城後は簗田出羽守(正綱)、織田越中守(信照)、川口久助が在城したことが「張州府志」や「尾州古城志」などに記されています。
 本史跡地は平成元年(1989)に公園として保存整備され、本丸・二の丸・諏訪曲輪・内堀・侍屋敷 の主要な遺構が残されています。これらの縄張は江戸時代中期の蓬左文庫蔵「沓掛村古城絵図」と現状との比較をした場合、本丸址・諏訪曲輪・内堀・侍屋敷の一部は図が書かれた当時とほぼ重なる 状況にあり、全体的な広がりは東西約290m、南北約234メートルの広い範囲に及ぶものと推定されます。
 本丸部分の発掘調査(昭和56から昭和61年)では時代区分として16世紀を中心に大きく3期に渡って整備改修がされていることが明らかとされており、「天文十七」と書かれた木簡や天目茶碗、建物礎石等、多くの遺構・遺物が見つかっております。

  • 第1期:苑池を配した建物が建てられた後、掘立柱建物とため池、井戸が作られた居館的な性格
  • 第2期:掘立柱建物が壊され池も埋め立てられて、堀と土塁・礎石建物が造られた城郭的性格
  • 第3期:土塁が削平され城郭としての機能が失われた時期

沓掛城址の画像その3

    蓬左文庫蔵「沓掛村古城絵図」

蓬左文庫蔵「沓掛村古城絵図」の画像その1 蓬左文庫蔵「沓掛村古城絵図」の画像その2

  出土遺物

 

二村山鎌倉街道

二村山鎌倉街道の画像その1 二村山鎌倉街道の画像その2

 鎌倉街道は源頼朝が鎌倉に幕府を開き、往来する人々のために整備した各地と鎌倉を結ぶ道路の総称で京・鎌倉間(京鎌倉往還)においては熱田、呼続、古鳴海、相原を経て二村山を通り、宿、十三塚、大久伝、西境、駒場を経て八橋に至ります。
 中でも市内北部に位地する標高71.8mの二村山は歌枕として詠まれた景勝地で、古来より街道を行き交う人々を魅了し、源頼朝をはじめ、北条泰時、飛鳥井雅経、西行などすぐれた歌人の詠んだ和歌が多く残されています。その往来する様子を記した最も古い記録については天暦5(951年)成立の『後撰和歌集』に収録されています。また、紀行文の『更級日記』(1020年)、『海道記』(1223年)『十六夜日記』(1279年)からも、鎌倉時代以前に人々が二村山を往還していた様子を知ることができます。
 さらに、二村山頂近くには「大同二」(807)銘の二村山峠地蔵尊が建ち、山麓には「十王堂」、「宿」といった街道の名残を示す歴史的地名も何箇所か残されており、古来より二村山に道が通っていた証拠を示すものとなっています。
 市内における鎌倉街道の跡とされる道は昭和初期まで、その経路をたどることができましたが宅地造成や土地改良事業によってそのほとんどが失われた状態となっており、現在では二村山の山頂近くにある地蔵堂の北西から濁池に向かって下る山道が市内で唯一、往時の道影を残しています。

二村山鎌倉街道の画像その3
「尾張名所図会」

二村山鎌倉街道の画像その4

市内地形図 (指定区域)

 

二村山峠地蔵尊

二村山峠地蔵尊の画像
   市の最高地・二村山の山頂に近い地蔵堂に安置されている3体のうち、向かって左の頭部のない高さ約115cm地蔵尊で、背面に「大同二」(807)の刻銘があります。
 いつの頃か、旅人が熊坂長範という盗賊に襲われたとき、地蔵尊が身代わりとなって切られ、肩から上が欠落したという伝説が生まれました。
 

二村山切られ地蔵尊

二村山切られ地蔵尊の画像
 二村山の山頂に安置されています。胴体が斜めに切られた形で、上半身と下半身が別々になっている珍しい地蔵尊です。
 下半身の背面に「古来仏依会大破建立之延宝七己未年(1679)」の刻があり、二村山峠地蔵尊の伝説をもとに建立されたものと思われます。
 

伊藤先生之碑

伊藤先生之碑の画像
 伊藤両村の業績をたたえるため、門人によって碑を建てる話が持ちあがり、生前の嘉永6年(1853)に両村が愛したゆかりの二村山に建てられました。碑文には両村の人となりや業績がおよそ800字の漢文によって刻まれています。
 撰文は、江戸昌平黌時代の同窓で、仙台の学者・大槻磐渓です。
 

青木地蔵

青木地蔵の画像
 鎌倉街道沿いの青木地蔵は、沓掛町宿の東方、老木の楠の根元に安置されていました。高さ約35cmの地蔵尊で、大正6年(1917)1月、寺内地蔵堂に移され、元の楠の根元には新しい代わりの地蔵尊が安置されています。
 街道沿いに安置されていたため、道祖神ではないかといわれていますが、今では頭部がないことから、下半身加護の地蔵尊として、多くの参詣者があります。
 

阿野八剱神社石灯籠

阿野八剱神社石灯籠の画像
 参道の両側にある一対の石灯籠で、阿野の外山家の出身である幕末の勤皇家・深見篤慶が万延元年(1860)8月に寄進しました。
 高さ約198cmの岡崎産花こう岩でできており、火袋と受台に深見家の家紋である三つの巴・丸に木瓜が刻まれています。
 

伊藤両村先生画像

伊藤両村先生画像その1
 絹本軸幅で、縦88.5cm横39cmの大きさです。郷土の偉大な学者・伊藤両村(1796~1859)が没した安政6年(1859)の暮れ頃に、尾張の画家・溝口月耕によって描かれ、翌7年2月に両村の門人・松本奎堂が賛をしています。
 

円福寺の秋葉大権現像

円福寺の秋葉大権現像の画像
 秋葉大権現像は、鎮火・守護の神として知られています。
 高さは約50cm、アララギ(イチイ)材の一木造りの着彩、名古屋の彫刻家吉村為隆の作で、天明8年(1788)に八事般若台の雲臥和尚によって開眼されました。
 大久伝の兼子源四郎維一が家に安置していたのを、霊夢により上高根の智福院に寄進しました。その後、明治の初めに廃寺となったため円福寺に移されました。
 

大久伝八幡社の扁額

大久伝八幡社の扁額の画像
 南画の池大雅(1723~76)が、大久伝の兼子源四郎維一家に逗留中に揮毫した書といわれ、文化5年(1808)に欅の板に書を刻し、扁額として兼子家より大久伝八幡社に寄進されたものです。
 隣の刈谷市には、「池大雅木額-秋葉殿・大悲閣」の2面があります。「秋葉殿」は、大久伝滞在中に揮毫されたものといわれています。
 

諏訪社の棟札

諏訪社の棟札の画像
 応永32年(1425)に沓掛城主近藤義行によって城内に勧請された諏訪社は、廃城後、本郷の氏神となり、宝永2年(1705)現在地に移されました。
 この社に社殿の改築、屋根葺きなどの記録を板木に書き残した棟札が多数残っています。最も古いものに慶長11年(1606)のものがあります。
 

曹源寺山門

曹源寺山門の画像
 曹源寺は、永正2年(1505)実田以耘和尚の開創で、この山門は享保2年(1717)11月に桶廻間村(現・名古屋市緑区有松町)の住人梶野清右衛門の寄進によって建立されました。
 欅材一部檜材の三間一戸楼門造りで、屋根は入母屋瓦葺です。
 

長盛院薬師如来坐像

長盛院薬師如来坐像の画像
 木造漆箔、像高約23cmの薬師如来坐像で、長盛院の本尊です。
 沓掛城主近藤九十郎景春の念持仏であった薬師如来は、永禄3年(1560)桶狭間合戦での落城と共に紛失し、その後、寛永元年(1624)近藤浄貞が地中より掘り出し、長盛院を建立し、本尊として祀ったと伝えられています。
 

諏訪社狛犬

諏訪社狛犬の画像
 この狛犬は、墨書銘によると沓掛村本郷・真野家により宝永5年(1708)に寄進されたものです。
 左右ともに高さ約34cmの像は、檜材寄木造りで、体は白、たてがみと尾は緑青で彩色されたように見られます。常時神前に献納されていて色があせたため、寛政8年(1796)、真野家によって再び彩色され、今日に至っています。
 

上高根の棒の手

上高根の棒の手の画像
 寛文年間(1661~73)に伊藤伴右衛門と浅野戸市左衛門が伝えた融和流棒の手をもとに、後に夢想流と改められて、住吉社(沓掛町住吉9)の祭礼に奉納されています。
 棒の手は、刀剣の持てない農民が身を守る手段として、身近にある棒や鎌などの農具を用いて護身の術にするよう考えられたもので、内容はいずれも秘伝として口授されながら、今日まで受け継がれています。
 

諏訪社虫送り

諏訪社虫送りの画像
 享和年間(1801~04)から始まったと伝えられる豊作祈願の民俗神事で、毎年7月下旬に行われます。
 小学生たちは、諏訪社(沓掛町森元6)神前での祈祷ののち、古老たちが麦わら、色紙等で作った実盛人形、馬、孔雀、「奉送雲霞大神」と墨書きした幟などを持って、歌と太鼓に合わせて本郷の集落内を行列します。
 集落の北はずれの最終地点で、幟などを焼き捨てて、豊作を願うものですが、近年では、豊作祈願から民俗伝承へと変わり、受け継がれています。
 

大狭間湿地

大狭間湿地の画像
   市内にわずかに残る貴重な湿地です。ホザキノミミカキグサ、サギソウ、シラタマホシクサ等といった希少植物が生育しています。現在は、湿地環境を調査中のため、一般公開はしていません。

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