広報とよあけ 令和5年11月1日号
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  文化財保護委員 永井邦仁跡から南南西へ約3.8 ㎞の地点、現在は伊勢湾岸自動車道や国道23号の豊明インターチェンジとなっている大脇城遺跡です【図2】。この遺跡では一九九六〜二〇〇〇年に発掘調査が行われ、城の中心部とみられる一辺が確認されました。堀から約33〜36mの方形区画の堀は「天正四」年号のある知多・大御堂寺(美浜町)の柴燈護摩札が出土しています【図2の③】。護摩札は「武運長久」とあるので城主に付与されたものです。大脇城の城主は梶川五左衛門文勝という武将で、城の名も「梶川五左衛門屋敷」と伝わっています。梶川五左衛門は刈谷や知多に勢力を広げた水野氏の重臣で、後に横根城(大府市)や成岩城(半田市)の城主となっています。これは一族の統合を図った水野信元の知多半島進出に合致し、大御堂寺の護摩札もその過程でもたらされたものと考えられます。 桶狭間の戦いは護摩札が付与される以前の出来事ですが、文献史料では、合戦時における水野氏(特に信元)の動向がはっきりしないことから、配下の大脇城(梶川五左衛門屋敷)もどのような態勢をとっていたのかは不明です。そこで発掘調査成果から、大脇城遺跡第Ⅰ期(一五世紀後葉〜一六世紀後葉)の状況を探ってみましょう。この時期には、先述の堀が方形に巡りその東辺の一部が途切れていることから、東側を流れる正戸川に向かって出入口になっていたと考えられます。ちなみに護摩札が出土したのはその南脇の堀の中です。一方で堀に伴う土塁や、堀の内外にどのような建物があったのかは削られていてあまりわかっていません。しかし井戸が14基以上確認されているので、区画の周辺にも屋敷地があったと推測されます。そしてそれらの北側で屈曲部のある全長86m以上の溝が東西方向に延びています。この溝は、断面がV字形をしていることから城や屋敷地を防御するための施設だったと思われます。 次に出土遺物をみると、ほとんどの土師器内耳鍋は「半球型」という尾張地域に多いタイプで【図2の②】、沓掛城のような西三河地域に多いタイプはみられません。また羽付鍋では口縁が内側に傾いたタイプのもの【図2の①】が多数を占めており、このことからも生活物資の入手先が尾張側に偏っていたことを示しています。これは主家の水野氏の動向を暗示しているようでもありますが、大脇城自体が正戸川に面した川湊のような立地であることも関係していると思われます。すなわちここから境川と衣浦湾を経由して海路で尾張地域の中心部との交流が盛んだった可能性が考えられます。 以上のように沓掛城と大脇城では、桶狭間の戦いにおける城主らの政治的立場までは明確にできませんが、物資調達の面で対照的だったことがわかります。なお、これらの出土遺物の一部は歴史民俗資料室で実物を見ることができます。とう5ご まさいぶんけんはんきゅうがた大脇城遺跡の主な遺構と地籍図との位置関係(報告書より作成) ふだ【図2】

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