広報とよあけ 令和5年11月1日号
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桶狭間の戦いをめぐる   二つの城跡 豊明市内には戦国時代に存在した二つの城跡があります。一つは今年の大河ドラマの初回に登場した沓掛城跡です。ドラマでは、永禄三年(一五六〇)の桶狭間の戦いに臨む今川勢の拠点として描かれていますが、戦いの模様を記した『信長公記』では「今川義元沓懸へ参陣」とあるので、沓掛城の他に主要交通路である鎌倉街道や沓掛宿など一帯に今川勢が宿営していたと考えられます。 その沓掛城跡では、一九八一〜八六年に主郭内部で発掘調査が行われています。調査では近藤氏が城主だった時期の池跡が確認され、それを埋め立てた土の中から「天文十七」と墨書された木簡や多数の土器・陶器類が出土しています。また池を(一五四八)以降に、それまで埋め立てた後に、主郭周囲の堀や土塁が大規模な改修を受けていたこともわかりました。つまり天文十七年の庭園(池)がある居館からより城砦化が進んだことになります。現在、市の指定文化財として保存されている遺跡は、今川勢進出期の状況を物語っています【図1】。 さらに、土器・陶器類からは沓掛城における日常の様子を垣間見ることができます。池跡SG02からは一五世紀後半〜一六世紀前半にかけての土器・陶器類が出土していますが、この中に口縁が外側に傾いた形の土師器内耳 じ鍋があります【図1の①】。内耳鍋とは、口縁の内側に弦(鍋を吊り下げるための植物性の紐)を通す穴がある鍋の一種で、近年、戦国時代の尾張地域と西・東三河地域ではそれぞれ異なるタイプの内耳鍋が分布していることがわかってきました。鍋や■のような生活必需品は身近なところで入手する傾向にあるので、流通圏もさほど広くないわけです。ところがこの内耳鍋は、沓掛城の所在する尾張地域でほとんどみられないタイプなのです。また、口縁近くに鍔がつく羽付鍋【図1の②】は、鍔の位置が低めでこれも西三河地域に多いタイプです。このことから、沓掛城で使われた土師器鍋は境川から東側の三河地域のものと共通し、日常的には西三河の経済圏に含まれていたことがわかります。 二つめの城跡は、沓掛城もっかんないなべつるつば きは じ 4沓掛城址の主郭部分と発掘された池の位置(報告書より)問合せ 生涯学習課文化・スポーツ係 ☎0562-92-8317【図1】文化財特集

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