広報とよあけ 令和5年6月1日号
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4年ぶりに住住3 信長は兵を二手に分けたとされています。一手は佐々・千秋隊で、今川軍の先頭と桶狭間村P2図の①で昼頃戦いました。義元は兵を先頭に送ったことで本陣は手薄となり、やがて先頭での戦いに勝った報せで喜び油断して酒宴を始めました。午後2時信長は南へ回り、突然本陣を奇襲し、今川軍は不意打ちで敗れました。佐々・千秋隊は信長の身代わりとなるおとりで、時間差二段攻撃であったと考えられます。 佐々・千秋隊は信長の紋の旗を馬上に掲げ今川軍先頭と戦いました。今川軍は信長の旗を掲げた武将を信長だと思い込み、討ち取った首は「信長の首」と義元へ報告したとされます。これにより義元は、信長の奇計にみごとに引っ掛かり、信長を討ったと確信して早くも祝宴を開いたのではないかと考えられます。とよあけ桶狭間ガイドボランティアでは、桶狭間古戦場伝説地に残る石碑の碑文、古文書、古地図、出土物を基に、両軍の行軍ルートと桶狭間合戦、その史跡類をガイドしています。詳細は、とよあけ桶狭間ガイドボランティアホームページをご確認ください。問合せ とよあけ桶狭間ガイドボランティア(堀田)☎0562-97-0534せん にん づかおけ はざ ま こ せん じょう でん せつ ちおけ は ざま(「桶狭間今川義元血戦」楊斎延一画)(「尾張名所図会」「桶狭間陣中に今川義元酒宴の図」)〈市観光協会ホームページ〉とよあけ桶狭間ガイドボランティアホームページと きところ前後町仙人塚1737栄町南舘11信長はなぜ大金星をあげることができた?義元はなぜ油断して酒宴を開いた?   市内には桶狭間の戦いに関する史跡が多数あります。戦人塚おけ は ざま桶狭間の戦いの戦死者約2,500人を供養した塚。450年以上そう げん経った現在でも曹源じ寺の住職が供養を続するけています。昔は「駿がづか河塚」と呼んでいたと伝えられています。ぜひ行ってみてはいかがでしょうか。桶狭間古戦場伝説地「桶狭間の戦い」の古戦場伝説地。いま がわ よし もと今川義元の墓など桶狭間の戦いにまつわる石碑が多数見られます。詳細は、広報とよあけ5月1日号または、市観光協会ホームページをご確認ください。問合せ 桶狭間古戦場まつり実行委員会事務局(産業支援課内)☎0562-92-83326月3日(土)・4日(日)※3日(土)にイベントはありません。桶狭間古戦場伝説地、高徳院(駐車場)、沓掛城址公園、戦人塚※駐車場はありません。公共交通機関でお越しください。とよあけ桶狭間ガイドボランティアによる歴史ガイド・講座も行います。午前9時〜午後4時桶狭間古戦場まつり開催!

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