122桶狭間の戦いとよあけ桶狭間ガイドボランティアが教える住こんどうむねみつ永禄3年(1560)、駿河(静岡県東部)の今川義元は、遠江・三河の兵も引き連れ25,000人とも言われる大軍で尾張に攻め込んできた。5月19日朝、沓掛城を5,000人で出た義元軍は大高城へ向けて進軍を開始した。今川方の松平元康(家康)は前日大高城に兵糧を入れ、朝鷲津・丸根の砦を陥落させた。尾張の織田信長は早朝報せを受け、主従6騎で清洲城を出て熱田神宮へ向かった。善照寺砦から佐々・千秋隊300人を先鋒隊として出発させ、中島砦まで行くが、集まった信長軍は3,000人で、本陣攻撃隊は2,000人であったという。佐々・千秋隊は桶狭間村で昼頃今川軍の先頭に襲いかかる。後方1㎞の田楽狭間(豊明)でその報せを聞いた義元は輿を降り、兵を先頭へ送る。やがて佐々らに勝利した報せと、鷲津・丸根の砦での勝利を喜び、豊明の古戦場を本陣として勝利の宴を始めた。その時西北より黒雲が沸き起こり暴風雨となった。信長は雨がやんだ午後2時、突然南から本陣を奇襲した。本陣の西の山から駆け下りてきた兵もいた。油断していた今川軍は総崩れとなる。義元は300人の兵に守られて東へ逃げるが、兵は深田に足を取られて討たれ、義元はついに首を取られた。この戦いは一瞬の出来事で、死者は今川軍2,500人、織田軍830人であった。、おおだか まつだいらもとやす いえやすきよ す ぜんしょうじ さっさ せんしゅうまつ だいら もと やす とく がわ いえ やすする が いまがわよしもと とおとうみわし づ まる ね お だ のぶ ながくつ かけ じょう し特集桶狭間の戦い今川方の城織田方の砦今川軍織田軍戦場織田軍 3,000人織田信長今川軍 25,000人今川義元鳴海城中島砦鷲津砦丸根砦大高城桶狭間村桶狭間の戦いとは松平元康(のちの徳川家康) 当時今川家の人質だった元康は、大高城への兵糧入れ、鷲津・丸根砦の陥落を命じられ成功させた。 義元の死を機に今川家の支配から逃れ、岡崎城を拠点に独立を果たした。善照寺砦鎌倉街道佐々千秋隊信長本隊二村山信長本陣太子ヶ根桶狭間古戦場(豊明)義元本陣沓掛城間米村今川軍戦人塚● ●12沓掛城址沓掛町東本郷11 14世紀頃、近藤宗光が初代城主としてこの地に住み、桶狭間の戦いの前日に義元が入城し、尾張大攻撃の準備をした城と伝えられています。
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