広報とよあけ 令和5年2月1日号
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海城には家臣の岡部元信を守将として配置します。永禄2年(1559年)信長は義元が近々尾張へ侵攻してくるという情報を得て鳴海城、大高城の抑えとして丹下、善照寺、中島、鷲津、丸根、正光寺砦などを築き義元の侵攻に備えます。   永禄3年(1560年)義元は尾張への侵攻、上洛を決断、駿州・遠州・参州の大名・諸侯に参戦を命じます。同年5月10日、先陣が駿府を出発、5月12日義元は本隊を率いて出陣します。義元本隊は5月その頃先陣は鳴海地域で待機します。5月18日義元本隊は沓掛城へ着陣、軍議を開き、同日夜半、大高城への食料搬入、翌日未明鷲津・丸根砦攻撃を決定します。 19日、両砦攻落の報告を受け、義元は本隊を率いて沓掛城を出陣、大高城を目指します。当日朝からの暑さを凌ぐためか、入城前に武将への慰労を兼ねて供に昼食をとるためか、理由はいろいろ考えられますが、桶狭間の北方田楽狭間で陣を構え(『日本戦史 桶狭間役』他)休息を取ります。昼頃天候は急激に悪化、悪天候に乗じて信長率いる信長軍は田楽狭間に接近(この時点で義元本陣の位置は確認できていない)。その後、天候は徐々に回復、信長は義元本陣を乗り物(塗輿、網代輿など)から確認、奇襲攻撃をしかけます。義元本隊は防戦態勢を整えることができず、義元を守り退却するのが精一杯でした。そして、次第に兵士は討たれ、義元も応戦しますが、信長家臣に討たれ、42年の生涯を終えます。この戦いは2時間にも満たない、しかし大きな戦いでした。(参考文献)『信長公記』、『三河物語』、『信長記』、『総見記』、『織田真紀』、『武徳大成記』、『張州府志』、『武徳編年集成』、『改正三河後風土記』、『武家事紀』、『張州雑志』、『桶狭間合戦記』、『蓬州旧勝録』、『新編桶峡合戦記』、『日本戦史桶狭間役』、『豊明市史 桶狭間の戦い』文化財保護委員 鈴木兼幸〈絵本太閤記(名古屋市中村図書館蔵)〉25 開室日 金曜・土曜日 午前10時〜午後4時●桶狭間の戦いミニ講座④ 「桶狭間の戦い」 と  き 2月11日(土・祝) 午前10時30分〜 と こ ろ 共生交流プラザ「カラット」南館3階活動室1 講  師 文化財保護委員 鈴木兼幸氏●桶狭間の戦いのゆかりの地を巡る と  き 3月11日㈯※小雨決行 午前10時〜午後0時30分 集合場所 共生交流プラザ「カラット」南館1階歴史民俗資料室 内  容 歴民研究会メンバーの案内で、ゆかりの地を歩き、      共生交流プラザ「カラット」へ戻ります。問合せ 生涯学習課文化・スポーツ係 ☎0562-92-831717日池鯉鮒(現知立市)へ進み、歴史民俗資料室からのお知らせ

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