広報とよあけ 令和5年2月1日号
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今川義元の誕生から桶狭間の戦いで討死するまでの42年の生涯について主な出来事やその前後の流れから推測される出来事を交えて紹介します。永正16年(1519年)義元は今川氏親と正室寿じゅ桂けい尼にの間に第五子(五男)として生まれ、方菊丸と名付けられます。大永3年(1523年)方菊丸が5歳になった時、父氏んがくしょうほう栴せ岳承芳と改名します。兄弟親は方菊丸を出家させ、名を間での家督争いを避けるための措置でした。承芳の教育係には後の義元にとって師匠であり軍師として信頼する太原雪斎が就きます。雪斎は兵法・漢詩・公家のしきたり・教養人としての資質を伸ばすため和歌などを教えていきます。大永6年(1526年)承     ど      芳が8歳の時、父氏親は病に倒れ亡くなります。そこで正室の子である長男の氏輝が家督を継ぎ今川家当主となります。この頃から雪斎は承芳を時々京へ連れて行き、公家や足利幕府重臣に会わせ、親交を深め人脈を広げていきます。これができたのは、雪斎自身京で修行していた時の人脈やつてがあったからです。天文5年(1536年)承芳が18歳の時、氏輝は24歳の若さで病死。その跡を継ぐはずであった側室の子、二男の彦五郎も氏輝の後を追うように同じ日に謎の死を遂げます。そこで出家していた側室の子、三男の玄げ広恵探が跡継ぎに名乗りを挙げます。また承芳も跡継ぎに名乗りを挙げ、ここに異母兄弟による家督争いが起こります。この時、今川家家臣の大半が承芳を支持したと言われ、恵探は敗れ自刃して果てます。この争いは後に花倉の乱と呼ばれます。承芳は還俗(僧から俗人に戻る)し、の一字を与えられ、今川義元んこうえたんと名乗り、今川家当主となります。引き続き雪斎は軍師兼補佐役として義元を支えていきます。その後義元は三河へ領地を拡大していきます。天文11年(1542年)、天文17年(1548年)の二度にわたり、雪斎を総大将とする今川軍は織田信秀(信長の父)率いる織田軍と岡崎の小豆坂で戦い、勝利します。小豆坂の戦いと呼ばれています。天文18年(1549年)雪斎を総大将とする今川・松平連合軍は西三河の安祥城(安城市)を攻撃。城主である信秀の息子、信広を生け捕りにし、松平竹千代(後の徳川家康)との人質交換を信秀に要求、竹千代を取り戻し駿府へ連れて帰ります。駿府では、竹千代は人質といっても生活に制約があるわけではなく、兵法を学ぶなど伸び伸びと過ごしていたようです。また、竹千代が元服する際、義元の「元」の一字を与え、竹千代は松平次郎三郎元康と名乗ります。義元がそれだけ竹千代に目をかけていたことが分かります。田信秀病死、信長が家督を継ぎ織田家当主となります。斎のはたらきかけもあり、政略結婚により、今川・北条・武田の間で三国同盟が成立しNo.915 2023年2月1日号ます。これにより義元は北条・武田を気にすることなく尾張に目を向けられるようになりました。しかし弘治元年(1555年)雪斎は病に倒れ亡くなります。雪斎の死は義元にとって大きな痛手となったようです。の時既に今川方に属していた鳴海城主山口左馬助は大高城、沓掛城を奪取し、義元に差し出します。これにより大高城には鵜うの殿長なる照、沓掛城には瀬名刑部、三浦右衛門佐などが守将として配置されます。信長はこれに激怒し、策略を講じ、それを信じた義元は、山口父子を駿府へ呼び出し切腹させてしまいます。その後鳴天文21年(1552年)織天文23年(1554年)雪永禄元年(1558年)、こがて24問合せ 生涯学習課文化・スポーツ係 ☎0562-92-831712代将軍足利義晴より「義」     生 生涯涯今今川川義義元元のの

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