広報とよあけ 令和2年11月1日号
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文化財特集問合先 生涯学習課生涯学習・文化財係 ☎0562-92-8317沓掛小学校東の道路わきに「一之御前安産水」と書かれた電柱巻き看板がある。そして、道路を挟んだ北側には「霊水安産水」の石碑。その碑には、「昭和十年十月建之」の文字。さらに碑の裏手には、水神池があり、池に水を注ぎこむ上方に周囲5m四方、高さ2mの土塀がめぐらされた泉源がある。泉源は、80cm四方の石枠で囲まれ、その正面右側に「正しょうとく徳六歳」(1716年)左側に「丙ひのえさる甲四月□」と刻まれている。また、泉源の奥には、樹齢数百年のクスノキの古木。地元氏子衆のご神木であり、この根元から霊泉が湧き出て、土塀の外にある雨除けの屋根の下の石枠と階段のある水汲み場に流れ、あふれ出た水は、水神池に落ちるようになっている(写真)。石に刻まれた1716年は、6月に正徳から改元、享保元年となり、八代将軍吉宗が「享保の改革」を始めたころである。この湧水を安産水という由来は、言い伝えによると沓掛城八代目城主近藤伊これかげ景(1467~1533年)までさかのぼる。伊景は、明みょうち知城主も兼ねたり筑前守に叙せられたりして、時の帝後奈良天皇(在位1526~1557年)の信任が厚く、娘を宮女として奉仕させた。そして、娘は身ごもり、郷里明知に帰る途中祖先の菩提寺祐福寺に参詣しようとして、この地に差し掛かった。この時、清水が湧き出しているのを見てこれを飲み、渇きをいやした。そして安産することができたという。以来、妊産婦は安産を願って遠近からこの清水をいただきに来たという。なお、史料によると伊景の子景春は、桶狭間の戦い(1560年)に出てくる沓掛城主であり、戦いの後、織田軍に攻められ戦死している(写真)。以後、居城者は、織田氏、簗やなだ田氏、川口氏と変わり江戸時代初期には、廃城となっている。景春は、伊景の子にあたるので安産水を飲んだ娘の兄か弟になるはずである。ところが伊景が兼務したといわれている三好明知城主についての三好町誌には、近藤氏の名前が出てこない。明知城は、松平氏に仕えた原田氏の居城と考えられており、1590年廃城となっている。もちろん安産することができた娘や生まれた子の史料もない。ただ、豊明市史を引用し、「伊景(筑前守伝三郎)沓掛に生まれ明知に住す。」とあり、沓掛との関係性を解明するとよいとしている。また、後奈良天皇といえば、伝承によると、大永8年(1528年)左さちゅうじょう中将経つね広ひろ卿きょうを勅使として、祐福寺へ勅願寺の綸りんじ旨を下されたとき開削した池が勅使池であるといわれている。寺への勅使がなぜ池を開削したのかとも思われるが、経広卿は、この工事のため桟さじき敷を組み、その上で工事を監督したという。一説では、桟敷、勅使の地名はそこから来ているとされている(写真)。史実に照らし合わせるとどうかと思われる点も見られるが、神域に湧き出る清水を霊泉として崇め、大切にしてきた地元の人々の思いは伝わってくる。例年3月、地元氏子により「延寿霊泉安産水神祭」が執り行われている。故事にならい清水口にて安産、幼児の虫封じ、幼子の成育祈願する神事が行われる。参列者は、地元氏子等役員、子ども会はもちろん、遠方からの来場者も見られることがある。「昔から枯れたことのない清冽な泉が湧き出ている」「年中清水こんこんと湧いて止まず。流れて小池に入る」「神木の根元から、こんこんと霊泉が湧き出るのを見て、村人たちは、『安産水』と呼び近在の妊婦たちは、こぞってこの恩恵に授かろうとしてきた」いずれも先人が安産水の様子を表現した言葉である。しかしながら、湧水は昭和56年以降減り始め、ここ数年は枯れてしまって往年の面影はない。新たに井戸を掘り、水脈を見つけようとしたが叶わなかった。とはいえ、今後とも市の指定史跡として、伝承を次の世代につなげていくことが望まれる。豊明市文化財保護委員        近藤俊秀市指定文化財「一之御前安産水」余話市指定文化財「一之御前安産水」余話安産水安産水勅使池 近藤九十郎景春墓通称天神山内   名古屋大学東郷自然観察園内   (東郷町春木清水ヶ根)22No.888 2020年11月1日号

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