広報とよあけ 令和元年11月1日号
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Informationがら退却します。しかし、織田軍の勢いにのまれ義元を守る家臣たちは次第に討ち取られ、義元も応戦しますが、信長の家臣服部小平太・毛利新助に桶狭間と呼ばれる場所(後に屋形狭間と呼ばれる)で討たれ桶狭間の戦いは終わりをむかえます。その後、信長は討ち取った武将が義元であることを確認、午後4時頃には清須への帰路につきます。 桶狭間の戦いは、わずか2時間足らずの戦いでしたが、勝敗のいかんによっては、その後の歴史がまったく変わったかもしれない大きな出来事でした。(参考文献 豊明市史より)・信長公記 ・武家事紀・尾州桶狭間合戦縁記・東照軍鑑 ・武功夜話・日本戦史桶狭間役・武徳大成記 ・張州府志・佳境遊覧 ・塩尻・尾張国名蹟略志考・知多郡桶廻間合戦申伝之記・感興漫筆 ・東街便覧図略・尾陽雑記 ・蓬州旧勝録・徳川盛隆記・尾張国古戦場覚書・桶狭間合戦記 ・総見記・家忠日記増補追加・武徳編年集成・今川義元桶迫間合戦覚・集覧桶廻間記・信長記・改正三河後風土記※本文記載については、筆者 の見解を示しております。著 文化財保護委員  鈴木兼幸尾張名所図会(豊明市教育委員会所蔵)【史跡の概要】 戦人塚は、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いとの関連から、桶狭間古戦場伝説地と共に昭和12年12月21日に国の指定史跡にされています。 今川軍の戦死者2,500余人を曹そうげんじ源寺二世快かい翁おう龍りゅう喜き和尚が供養した塚といわれ、また一説には、織田信長が部下に今川軍の死者を検分させ、その遺骸を集めさせた塚であるとも伝えられています。 塚の上には高さ1.05メートルの石碑があり、南面に「戦人塚」、東面に「永禄3年庚申五月十九日」、西面に「南無阿弥陀佛」と記されています。元文4年(1739年)、この塚で180回忌の供養が営まれた際に建碑されたといわれています。 この度、平成30年10月より進めていました戦人塚整備工事が平成31年3月8日をもって完了しました。全面に芝が張られ、高台に位置する塚の上からは桶狭間古戦場伝説地方面を広く見渡すことができます。国指定史跡 桶狭間古戦場伝説地 附戦人塚29

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