広報とよあけ 令和元年11月1日号
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文化財特集 問合先 生涯学習課生涯学習・文化財係 ☎0562-92-8317 永禄3年(1560年)5月朔日(旧暦の1日)、今川義元は駿州(静岡)、遠州(静岡)・参州(三河:愛知)の諸侯・武将に対して尾張へ侵攻し、織田を滅ぼし上洛するために合流するように命令を出します。そして同年5月10日先陣が駿府を出発、義元は5月12日本隊を率いて駿府を出陣します。5月17日先陣は池鯉鮒(知立)を通過、鳴海まで進みその地域で陣を構えます。2万人余りの今川軍が鳴海周辺に布陣していたと言われます。 義元本隊5千人は5月17日池鯉鮒で宿泊、5月18日沓掛城に着陣、そこで軍議を開き、松平元康(後の徳川家康)に大高城への食料搬入を命じます。5月18日夜半元康は大高城周辺に織田方の鷲津・丸根砦などが配置されている中、食料搬入に成功します。また、5月19日未明に鷲津・丸根砦へ攻撃を開始するよう命令を下し、鷲津砦は朝比奈泰やす能よしを大将とする攻撃部隊、丸根砦は松平元康を大将とする攻撃部隊の攻撃を受け陥落します。 義元は5月19日午前中(時刻は不明)沓掛城を出陣、両砦陥落の報告を受けます。日本戦史桶狭間役には進軍途中両砦陥落の報告を受けた、と読み取れる次のような記述があります。「是ヨリ先義元ハ沓掛ヨリ大高ニ向ヒ丸根・鷲津ノ捷ヲ聞クニ及ヒ桶狭間ノ北方即チ田楽狭間ニ休憩シ在リシニ~」 当日朝からの暑さ(桶狭間合戦記、武功夜話他)、駿府からの強行日程(1週間で160㎞以上の距離を武具を身につけての進軍)による疲労、武将などへの慰労、大高城入城前に昼食をとるなどいろいろな要因があったと思われますが、桶狭間山の北の松原(文献によっては桶峡ノ山間、桶狭間ノ北方田楽狭間などと記されています)で陣を構え休息をとります。その際十町余り(約1・1㎞)先の場所に織田軍の攻撃に備え、松井宗信、井伊直盛などの部隊を配備します。 その頃信長の一手(佐々隼人正・千秋四郎らの部隊3百人余り)に勝利したと義元の本陣に報告があり、近隣の寺社方より献上された酒肴により、戦勝祝い・武将への慰労を兼ねて酒宴を開きます。 一方、織田信長は、今川軍の鷲津・丸根砦攻撃に関する報告もあり、5月19日未明5人の側近と共に清須城を出発します。熱田神宮到着時、集まった兵士は数百人(文献によっては千人余り:武家事紀)になっていました。信長が戦勝祈願をした時本堂の奥より武具の音が聞こえ、これは熱田大明神が我々を援護してくれる合図であると家臣・兵士らに伝え励まします(桶狭間合戦記・改正三河後風土記では、「信長による兵士の士気を高めるための策略で、あらかじめ神官が本堂の奥に隠れ、信長が参拝した時武具の音が聞こえるようにして兵士を励ました」と記しています)。 信長が参拝を終え、東の方を見ると黒煙が立ち昇り、鷲津・丸根砦の陥落を知ります。その時、白鷺二羽が東の方へ飛び去っていく様子を見て、これは熱田大明神の使者の案内であると兵士らに伝え士気を高めます。 その後、信長は熱田神宮から丹下砦を経て善照寺砦へ移ります。善照寺砦へ着く頃信長の家臣佐々隼人正・千秋四郎ら3百人余りの部隊が今川軍に攻撃をしかけます(文献によっては鳴海城攻撃、鷲津砦攻撃部隊への攻撃と異なっています)。しかし、敢えなく敗れ、その間に信長は中島砦へ移動、兵を揃え間道を進み、太子ケ根へ着陣します(日本戦史桶狭間役、桶狭間合戦記他)。 正午頃、天候が急激に悪化し(当日朝からの暑さにより局所的に雷雲が発生、それに伴うゲリラ豪雨、寒冷前線通過に伴う積乱雲の発生などいろいろな気象現象が考えられます)、義元の陣では、酒宴を中止し、雨風を凌ぐため右往左往します。その間、悪天候に乗じて今川軍の手薄な地域である本陣の後の山を谷づたいに進み、義元の本陣より上の場所に信長は着陣します。義元の兵士たちは、悪天候の影響で織田軍の接近に気づきませんでした。それほど激しい雨風が吹き荒れていたようです。その後天候回復の兆しが見え信長は義元の本陣の位置や兵士の動きを確認、午後2時頃織田軍より東に位置する義元の本陣に攻撃をしかけます。義元の家臣・兵士たちは織田軍の奇襲攻撃にさらに混乱、防戦体制を整える間もなく義元を囲むように守りな桶狭間の戦いについて一考察28No.876 2019年11月1日号

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