広報とよあけ 平成30年6月1日号
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No.859 2018年6月1日号28文化財特集 問合先 生涯学習課生涯学習・文化財係 ☎0562-92-8317今川義元討死の地はどこか(仮説) 永禄3年5月19日(1560年)、今川義元が桶狭間の戦いに敗れ討死した、とする記述が多くの文献に残されています。しかし、討死の場所については屋形狭間、桶狭間、田楽狭間などある程度の広さの地域となっていて、なかなか場所を絞り込むことはできていません。 そこで、義元塚(墓)はいつ頃から存在したのか、塚(墓)の場所は、塚(墓)の規模は、などの文献の記述をもとに、別の視点から義元討死の地について考えてみたいと思います。 斎藤徳元の記した紀行文『関かんとう東下げこう向道みちのき記』(1628年成立)では、江戸へ向かう途中東海道から現桶狭間古戦場伝説地辺りと思われる方向を見て「道より馬手にあたりて小高き古塚有そのかミ~義基たたかひまけて此所にて果給ひし古墳なりと聞て~」(義基は義元のこと)との記述があり「東海道より右の方に(江戸の方に向かって)古い塚が見え、義元が敗れ討死した場所を示す古い塚であると聞いた」と、その塚は義元が討死した場所にある、というように読み取れます。 さらに、山鹿素行の記した紀行文『東海道日記』(1652年成立)でも、京へ向かう途中「オケハザマデンガクボここに今川義元討死の所として塚あり」と記述しています。また、『張ちょうしゅう州府ふし志』(松平君山著、1752年成立)、『佳かきょう境遊ゆうらん覧』(伊藤随庸著、1722年成立)などでは、今川義元塚(墓)は大脇村(現豊明市)の内にある、とも記しています。 ここで採用した文献の中で一番古い文献である『関東下向道記』が1628年成立ということで、1628年以前に義元塚(墓)が存在していたことがわかります。それも東海道から見えるということは、義元塚(墓)がかなりの規模のものであったか、東海道からそれほど離れていない場所にあったのではないか、と推測されます。 『蓬ほうしゅうきゅうしょうろく州旧勝録』(鈴木作助著、1779年成立)では「義元塚 桶狭間田楽か久保山際に在り、塚六尺四方 畔二間四方程、義元生害の場所也、今の往還ゟより壱町斗入ル」すなわち、「義元塚は桶狭間田楽か久保山際に在り、塚は約1・8m四方、盛り土が約3・6m四方の大きさで、義元が討死した場所である。今の東海道から約109m中に入っている。」と、塚の規模、討死の地、東海道からの距離について記しています。また、『今いまがわよしもと川義元桶おけ迫はざまかっせんおぼえ間合戦覚』(1706年成立)では「~往還ゟ義元公の御塚迄道法六拾間~」、『尾張名所図会』(1841年成立)でも「~街道より一町余南の方~」と義元塚(墓)は東海道から約109m南に入った場所にある、と距離が記されています。 これらの文献から義元塚(墓)は、1628年以前に既に存在した、その規模は塚自体が約1・8m四方でそのまわりを盛り土で囲み約3・6m四方の大きさで、当時の東海道から南へ一町程(約109m)入った場所で、大脇村(現豊明市)の内にあった、とまとめることができます。 『関東下向道記』、『張州府志』、『尾おわりじゅん張徇行こうき記』他多くの文献で、義元生害(討死)の尾張名所図会挿絵(豊明市教育委員会所蔵)尾張名所図会挿絵(豊明市教育委員会所蔵)No.859 2018年6月1日号28

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